まんどりるンパッパ

嘘をつかなくても生きられる生活を目指して。

なんで古文なんか受験で解かなあかんねん?

仕事先のオフィス、大掃除。若手筆頭の我、力仕事をひたすらす。明日、筋肉痛にならん。
サ行変格活用懐かしいわ~。
未然/連用/終止/連体/已然/命令
せ/し/す/する/すれ/せよ
脳内で暗唱していたこのリズム懐かしいわ~。高校時代古文沢山読んだな~。最近全然古文読まへんな~。って、普通読まんわな。
なんで古文なんか受験で解かなあかんねんゆうてた同級生おったな。その時、ある人がゆうた答えがなかなか秀逸やった。

「日本語に近い外国語やおもて勉強すればええんとちゃう。ヨーロッパとかでは互いに類縁関係にある言語がたくさんあるわけや。で、母国語に隣接した言語を学ぶことで己の言語感覚を磨くことができてると思うねん。でも、日本にはそれがないねん。だから、その穴埋めとしての古文が持つ役割は大きいと思うねん。日本の歴史を学ぶっていう目的もあるはずやねんけど、歴史を学ぶだけやったら現代語に訳した文章を読めばええだけの話やし。重要なんは、古文を読み解いて現代語の解釈に当てはめていこうとする行為なんやな。言語の違いは概念の違いっていうやろ。やから、解釈を試みることで言語間にある差異を捕まえることができるんゆうのはめっっちゃ尊いことやと思うねん。自分の中の細かい感覚を認識できんねん。自分の中になかった新しい感覚に出会えんねん。つまりな、感覚を研ぎ澄ませることができんねん。ほんでな、近い言語だとそれが比較的簡単にできると思うねやんか。想像しやすいからなんかな。で、近い言語だからこそ、微妙な違和感が内観的に生じた時の喜びと感動が大きいと思うねん。で、その喜びと感動の大きさはそのまま破壊力の大きさやねん。

長なったけど、言いたいことは、言語学習ではその破壊力に出会うことが必要やっちゅうことで、古文は破壊力がデカい、っちゅうことやな。」

あ、そういえば、これ答えたの、俺やったか。なかなかええ回答やと思うんやけど、あかんかな。

大学入試で古文(漢文もやな)が廃止されたら悲しいわ~。
まあ、古文を肯定的に捉えられていたのは、俺の得点源やったっちゅことは大きかったんやと思うねんけどな。思えば、理系やったんやけど、三年間で唯一学年で一位をとれたのは国語だけやった。一番おもろい科目って、国語やん?あらゆる教科には読解力が必要やん?やから、国語力ってまず第一に必要やと思うんよ。数学も物理も化学も、論的思考力を発揮する以前の段階で、問題文の解釈力によって導き出される答えも違ってくるやんか。

作者の考えなんか知るか!って言いたくなるんは分かるんやけど、否定するにも、まずは作者の主張することを理解せんことには説得力もないわな。頭ごなしに否定して寄せ付けようとしないゆうんは、知的生産性からものどっつ離れた行動やと思うんよ。そもそも、己の思考力に自信を持ちすぎやねん。ソクラテスが「無知の知」ってゆうたやろ。ものごっつ重要な考えやと思うで。

そんでな、フランスの大学入試はバカロレア試験ゆうて、理系文系問わず哲学が必修らしいんよ。これは日本見習うべきやと思うで。さっきゆうたみたいに国語が高次元な科目だとして、そこからさらに高次元なのが哲学なんやな。受験のために勉強するっちゅうせっまいせっまい視野を広げるために、一旦ちゃんと学ぶというのはどう言う行為かっちゅうのを早くから理解させるべきやと思うで。