まんどりるンパッパ

嘘をつかなくても生きられる生活を目指して。

嫉妬との向き合い方

同期の作家が仕事の報告をTwitterでしている。正直嫉妬してしまう。そんな自分を情けなく思ってしまう。どうして素直にいいねを押すことができ無いのか。そんな広い心が自分には無いのか。

作家はそれぞれが違うポリシーを持っていて、いろいろと幅広く手を出したり、はたまた特定の分野にこだわって仕事をしている人などがいて、十人十色の様相が色濃くみられる職業だと思う。でも、そういえば年末年始のテレビで転職サービスのCMがめちゃくちゃやっていたことだし、個人の市場価値を俯瞰して見る動きが強まる今のご時世にあっては、あらゆる職業も例外では無いのかもしれない。

そんな個人が個人として活躍しやすい時代になったからこそ、冒頭で述べたような嫉妬が社会全体に渦巻いている。だから、それとうまく付き合わなければならない。

言語化できる範囲で用意できるその答えは結局「好きなことをすれば良い」ということに尽きるだろう。

ちなみに今日何をしたかを振り返ってみると、まず「ラーゲリより愛を込めて」という映画を見て、YouTubeで動画を見漁って、そして先日見に行った舞台の台本を読んだ。インプットをひたすらした。好きなことができた良い一日だった。

 

元日

二〇二三年。

一月一日。

明けましておめでとうございます。

元日は正月の新年を迎える年初の日。元旦と元日の違いであるが、本来「旦」は「朝・夜明け」の意であるから「元旦」は「元日の朝」(初日の出)を指すらしい。

ひたすらお笑い番組がやっている。年末年始だからなのだろう。やはり人間はどこかでお笑いを求めている、求められずにはいられないでいるということが確認できる。「笑いは医者の薬」ともいうぐらいである。一昔前は年中もっとお笑いをやっていたのだが。

笑いに救われてきた身として、笑い、エンタメで人を救いたい。救える人がいるはずだから。それを使命感に生きている。生きていこう。

とにかく。

二〇二三年、スゴイことになるから。

期待しておいてください。

よろしくお願いします。

大晦日

十二月三十一日。

晦日

毎月の末日を「晦日」と呼び、晦日の中でも一年を締めくくる十二月には大をつけて「大晦日」と呼ぶ。

晦日の歴史はかなり古く、平安時代まで遡るらしい。

歴史ってすごいよな。すぐにできるもんじゃないから。積み重ねだから。

宇宙規模で見れば人間もAIもただの物質に過ぎないけど、刹那の存在でしかないけど、一個体の寿命が精々百年弱の我々人間は、一瞬の儚さの中に歴史を噛み締めることができる尊い存在なのかもしれない。

 

という相変わらずの雑文は置いておきまして、皆様、良いお年を。

ハラキリ

あのねぇ、ハラキリって言うけどね、腹を切って即死するわけじゃないんだぜ。ハラキリには介錯人と言うのがいてね、その男が切腹した男の首を斬るわけなんだ。

だがね、斬ると言っても、斬り落とすわけではないよ。皮一枚残して首が胴につながっていなくちゃならない。

そのためには、首に四分の三くらい斬り込んで、あと刀をスッと手前に引く、引きながら斬っていって、適当なところで止めるわけなんだな。

もしも首を斬り離しちゃうと、これは打首ということになって、これは罪人に対する扱いをしたことになるからーーハラキリって言うのは処刑じゃないんだよ、自決なんだーーだから打首にしてしまった介錯人が今度は腹を切らなきゃならないことになる

いや、大変なことなんだよ、これは。

それに、介錯のタイミングが難しい。これは腹を切る人の度胸によって違ってくるわけだ。つまり、この切腹する人の勇気の度合いをランクづけるのも介錯人の一つの大きな役割なんだ。

一番臆病な人には扇子腹と言って、刀を乗せる三宝に扇子を置く。そして三宝をうんと遠くに置くわけだ。切腹する奴が扇子に手を伸ばそうとして体を前に傾けた時、首を斬ると言うことになる。

その次は、今と同じだが扇子が刀になる。その次は、刀に手をかけたときに斬る。その次は、腹に突き立てようとした時に斬る。

それから、突き立てた時に斬るのがあり、突き立てて横に掻き切った時に斬るのがあり、一番偉いやつは、一文字に掻き切って、それからそれを胸のほうへ切り上げ、刀を懐紙で拭って鞘に納め、それを三宝に返し、居ずまいを正して、どうぞ、と声をかけた時に斬るんだなぁ。

そのほかに自決というのもあるよ。これは介錯人のいない場合だ。すなわち、切腹した人間が自分で喉を突いて死ぬ、と言うことだね。

この場合、特に注意してもらいたいことは、あまり腹を深く切ってはならぬ、と言うことだ。腹を切りすぎるとショックと出血が大きすぎて、喉を突く力が消え失せてしまう。即ち、そのままの姿勢で長く苦しむ、ということになって、これは見苦しいことであるとされている。

だから、自決の際には、くれぐれも、軽く皮だけを切る、という心構えを忘れないでいただきたい。

フットサる

今日はこの後フットサルをしに行く。フットサる。同期の芸人たちと。まだあまり知らない人たちもいる。だから一緒に球を蹴ることで距離を縮めていきたい。仲間を見つけたい。そして、今後一緒に最高のものを作っていきたい。

小中学生時代、サッカーをしていた。市選抜にも選ばれていたからそこそこうまかったのかもしれない。だが、そこからのブランクが長すぎる。海外サッカーを観戦していたりするからサッカー自体から離れてはいなかった。けど、超絶質の高いサッカーばかり観ているから、かえって脳内のイメージだけが先行し、プレーの要求レベルが高すぎて全く体が動かないという事態が発生しそうである。だが、下手で何が悪い。
自分の悪癖として、弱い部分を他人に見せようとしないことがあげられる。これは克服しなければいけない課題として頭の片隅には置いている(これはこのブログを書いている所以でもある)。かっこ悪い姿を見せることを躊躇うというのはみな誰しもにはあるだろう。でも、その壁を越えてこそ、相手を深く知ることができ、自分を深く知ってもらえる気がする。だから、今日のフットサルでは、下手だという前提を振りまいていこうと思う。多分実際に下手だから、問題はないだろう。

なんで古文なんか受験で解かなあかんねん?

仕事先のオフィス、大掃除。若手筆頭の我、力仕事をひたすらす。明日、筋肉痛にならん。
サ行変格活用懐かしいわ~。
未然/連用/終止/連体/已然/命令
せ/し/す/する/すれ/せよ
脳内で暗唱していたこのリズム懐かしいわ~。高校時代古文沢山読んだな~。最近全然古文読まへんな~。って、普通読まんわな。
なんで古文なんか受験で解かなあかんねんゆうてた同級生おったな。その時、ある人がゆうた答えがなかなか秀逸やった。

「日本語に近い外国語やおもて勉強すればええんとちゃう。ヨーロッパとかでは互いに類縁関係にある言語がたくさんあるわけや。で、母国語に隣接した言語を学ぶことで己の言語感覚を磨くことができてると思うねん。でも、日本にはそれがないねん。だから、その穴埋めとしての古文が持つ役割は大きいと思うねん。日本の歴史を学ぶっていう目的もあるはずやねんけど、歴史を学ぶだけやったら現代語に訳した文章を読めばええだけの話やし。重要なんは、古文を読み解いて現代語の解釈に当てはめていこうとする行為なんやな。言語の違いは概念の違いっていうやろ。やから、解釈を試みることで言語間にある差異を捕まえることができるんゆうのはめっっちゃ尊いことやと思うねん。自分の中の細かい感覚を認識できんねん。自分の中になかった新しい感覚に出会えんねん。つまりな、感覚を研ぎ澄ませることができんねん。ほんでな、近い言語だとそれが比較的簡単にできると思うねやんか。想像しやすいからなんかな。で、近い言語だからこそ、微妙な違和感が内観的に生じた時の喜びと感動が大きいと思うねん。で、その喜びと感動の大きさはそのまま破壊力の大きさやねん。

長なったけど、言いたいことは、言語学習ではその破壊力に出会うことが必要やっちゅうことで、古文は破壊力がデカい、っちゅうことやな。」

あ、そういえば、これ答えたの、俺やったか。なかなかええ回答やと思うんやけど、あかんかな。

大学入試で古文(漢文もやな)が廃止されたら悲しいわ~。
まあ、古文を肯定的に捉えられていたのは、俺の得点源やったっちゅことは大きかったんやと思うねんけどな。思えば、理系やったんやけど、三年間で唯一学年で一位をとれたのは国語だけやった。一番おもろい科目って、国語やん?あらゆる教科には読解力が必要やん?やから、国語力ってまず第一に必要やと思うんよ。数学も物理も化学も、論的思考力を発揮する以前の段階で、問題文の解釈力によって導き出される答えも違ってくるやんか。

作者の考えなんか知るか!って言いたくなるんは分かるんやけど、否定するにも、まずは作者の主張することを理解せんことには説得力もないわな。頭ごなしに否定して寄せ付けようとしないゆうんは、知的生産性からものどっつ離れた行動やと思うんよ。そもそも、己の思考力に自信を持ちすぎやねん。ソクラテスが「無知の知」ってゆうたやろ。ものごっつ重要な考えやと思うで。

そんでな、フランスの大学入試はバカロレア試験ゆうて、理系文系問わず哲学が必修らしいんよ。これは日本見習うべきやと思うで。さっきゆうたみたいに国語が高次元な科目だとして、そこからさらに高次元なのが哲学なんやな。受験のために勉強するっちゅうせっまいせっまい視野を広げるために、一旦ちゃんと学ぶというのはどう言う行為かっちゅうのを早くから理解させるべきやと思うで。

小説を書く

egword Universal 2 というワープロソフトを購入した。これからいっぱい台本・脚本を書くことになるから、必要なツールを揃えていこうということで、まずはソフトウェアを買ってみた。まずは、とは言っても、これだけでいいのかもしれない。

綺麗な縦書きの文章を書ける、とか、脚本スタイルのフォーマットが用意されている、とか、色々必要な条件があった。さまざまなソフトウェアをリサーチして比較してみて、egword Universal 2 が最適だと思った。長編小説を執筆するのにも作家の多くが利用しているらしい。形から入ったので、形に収まりにいこうか。つまり、小説を書こうと思っている。

ネットスラングで「ワナビ」というのがある。脱「ワナビ」します。